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大阪高等裁判所 昭和52年(う)992号 判決 1977年12月23日

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金一〇、〇〇〇円に処する。

右罰金を完納することができないときは金二、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人前田常好作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

論旨は、被告人の本件行為は、患者の口中から劇薬である充填薬パラホルムパスタを取り出すという歯科医師としての治療のために行った正当業務行為であるから罪とならず、傷害罪の成立を認めた原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ないし法令の解釈適用の誤がある、というのである。

しかしながら、原判決挙示の証拠によれば原判示事実を優に認めることができ、当審における事実取調の結果を参酌しても、原判決に所論のような事実誤認ないし法令解釈適用の誤は見出し得ない。すなわち、右各証拠によれば、被告人は原判示菊岡歯科医院に勤務する歯科医師であって、同歯科医院において来院する患者の歯科治療にあたっていたものであるが、原判示日時に歯髄炎治療のため来院した武山清(当時五才)を診察台に仰向けに寝かせ、前日同児の右上奥から二番目の歯に充填しておいた歯髄失活剤パラホルムパスタを取り出すため、口を開けるように指示したところ、清が恐ろしがって泣き出し両手で口を塞いで開けようとしないので、清の気持が鎮まるのを待つため一旦診察台から離れ約五分間休けいをとったこと、その間清に付添って診察台の脇にいた同児の母親武山好子が清に口を開けるように言いきかせ清も間もなく泣きやんだので、再び被告人が診察台の脇に戻り、歯科治療用具を右手に持ち清に対し前同様口を開けるように指示し、母親も一緒になって同様説得したが、清がまたしても両手で口を押えこれに応じようとしないため、劇薬である右失活剤を取り出したいという気持に、かたくなに開口を拒む同児に対する腹立ちの感情も加わり、「こらっ」と怒鳴りつけていきなり平手で同児の左頬を一回やや強く殴打し、これに驚いた清が泣くのはやめたもののなおも口を開こうとしないのを見て、更に「開けな出来へんやないか」と怒鳴りつけながらその左頬を前よりも強く一回平手で殴打したところ、清が驚いて口を半開きにしたので、すかさず右用具を清の口内に差し入れ前記充填薬をその上に施してあった仮封剤と共に削り取ったこと、この後被告人は、手に持っていた右治療用具を投げ棄てるように放り出し、付添いの母親に対し清の事後の治療方法について何ら指示、説明をしないまま黙ってその場を立ち去ったもので、清は被告人からの二回にわたる右殴打の結果治癒まで約五日を要する顔面打撲傷等を蒙ったことが認められる。

ところで、歯科医師が幼児の歯の治療に当たり、開口を拒否する患者の口を開けさせるため、実力を行使したとしても、治療行為に付随する正当な業務行為として刑法三五条により違法性を阻却される場合のあることは所論のとおりであるが、しかし、そのためには当該実力の行使が単に治療目的のためというだけでは足りず、その態様程度において社会的相当性の枠内にとどまるものであることをも必要とするところ、本件についてこれをみると、患者である武山清は五才児であって、歯科治療についてある程度の理解力は有していたものと考えられ、この点被告人の同児に対する説得努力は必ずしも十分とは言えないうえ、さしあたっての治療行為は前日充填して置いた歯髄失活剤パラホルムパスタを除去するにあるところ、同剤は一種の劇薬ではあるが、その毒性は他の同種目的に使用される劇薬に比べて微弱で、当日是非ともこれを除去しなければならないほどの緊急性がなかったことは証拠上明らかである。しかも、実力を用いて開口させるにしても、より軽度の手段でこれを行うことが可能であったこと原審で取り調べた証人堀亘孝の証言及び祖父江鎮雄の鑑定書ならびに当審証人祖父江鎮雄の証言によって明らかであるところ、被告人はかたくなに開口を拒否する清の態度への立腹の情も加わり(このことは被告人の失活剤除去後の前記行動に照らしても明らかである)、そのような軽度の実力行使を試みることなく、また付添いの母親の承諾をも得ないまま、いきなり幼児清の頬を二回にわたり平手で指の形が少なくとも数時間は赤く残る(告訴状添付の写真参照)ほどに強打して傷害を負わせたものであって、その行為は、歯科治療のため必要な開口の手段として行われたものであることを考慮しても、その態様程度において到底社会的相当性の枠内にあるものとは認め難く、刑法三五条により違法性を阻却すべき場合には当たらず、論旨は理由がない。

ところで、職権をもって原判決の量刑について調査するに、被告人の本件行為が歯科治療の手段としても社会的相当性を超え法的非難を免れないことは前叙のとおりであるけれども、それが治療目的から出た行為であることは否定しえないところであり、当時歯科医師の免許取得後まだ年月も浅く経験未熟な被告人が幼児のかたくなな開口拒否に会い、施療を急ぐ気持に腹立ちの感情も加わって、思わず本件行為に及んだものと認められること、本件後被告人側から被害者の両親に謝罪し慰藉料として金八万円を提供しようとしたが、被害者側がこれを断わったため示談成立に至らなかったことその他記録に顕われた諸般の情状を総合すると、本件は可罰性の甚だしく乏しい事案といわざるをえず、原判決が罰金刑を選択したものの、なお実刑をもって臨んだことは科刑重きに失すると認められるので、原判決はこの点において破棄を免れない。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書により更に判決することとし、原判決の認定した事実(傷害の部位を左顔面打撲傷及び左外耳炎と正訂する)に原判決挙示の法令ならびに刑法二五条一項を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 河村澄夫 裁判官 石松竹雄 長崎裕次)

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